四十九日の法要が終わって-父のこと31

先日、無事父の四十九日の法要がおわり、納骨をすませました。
四十九日まではずっと父のメッセージを感じることができて比較的心穏やかに過ごすことができたのですが、四十九日を過ぎるとなぜか父を感じることができなくなりました。
でもきっとあの世へ無事行けたのだと思うようにしています。

今思うのは、あの時父は夢をみていたのかな、ということ。
眠ったまま逝ったので、そのまま目を覚ますことなくだったから戸惑っているのではないかと思ったりもしました。
そんな心配をしても仕方ないのですが、それを思ったりするとまた涙がこぼれ落ちてしまい、、涙ってとめどなく続くものなんだなと思ったりしています。

父の少しヒンヤリそして少しあたたかい、手の温もりが忘れられません。
逝ってしまう前日は少しあったかくて、指が細くてきれいで、父の手がきれいなのは私の自慢でした。逝ってしまったあとも父の手は変わらずきれいで、すべすべしていて男の人とは思えないほど、でも私が到着したときはすでに3時間たっていたので、昨日よりあたたかさがなくなって、でもほんのり温もりが残っていたのがせめての救いでした。

四十九日とはこの世でもなくあの世でもないいわゆる佛教用語の中陰(中有(ちゅうう))というところにいて、その後あの世へいくまでの準備をします。
家族だけで行った中陰法要。
その日は空がきれいで雲が流れるような絵図をしていて、あの日と同じ空でした。
納骨が終わって僧侶さんが「お父さん、よろこんでましたよ」と最後にいってくださったのが何よりほっとしました。



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